2016年8月11日撮影
◆別名:
作手城
◆所在:
新城市作手清岳中屋敷
◆交通:
◆歴史:
応永31年(1424年)に奥平貞俊によって築かれた城である。
貞俊は天授年間(1375年~1380年)に、本願地である上野(現在の群馬県)からこの地に移り住み、川尻城を築いた後に亀山城を本拠地とした。
貞俊の子孫は作手の地の支配権を確立し、田峯城の菅沼氏などと共に山家三方衆と呼ばれる有力豪族の一つとなっていったが、戦国時代に入ると駿河の今川氏や三河の松平氏、尾張の織田氏、甲斐の武田氏など周囲の戦国大名の間を転々として行く事になる。
天正元年(1573年)武田氏に帰属していた奥平貞能は、秘匿されていた武田信玄の死を察知し、一族を連れて徳川方へと帰属。これに対し、家康は奥平家を長篠城に入れ、対武田軍の最前線に配置した。
奥平氏が徳川家に帰属した2年後の天正3年(1575年)に武田勝頼は大軍を率いて三河へ侵攻し、長篠城を包囲した事をきっかけにして長篠の戦いが勃発。織田・徳川連合軍が戦いに勝利した結果、長篠城で奮戦した奥平貞昌は、織田信長の偏諱を賜って信昌と改名した上、徳川家康の長女である亀姫を正室とした。また、家康所蔵の名刀『大般若長光』を貰い受け、さらには奥平家に仕える重臣を含め、知行などを子々孫々まで保証すると言うお墨付きを得ると言う厚遇を受けている。
信昌が長篠城主となったため、亀山城は寂れて行ったが、関ケ原の戦い後に松平忠明(徳川家康の四男)が亀山城主となり作手を支配するものの、慶長15年(1610年)に伊勢亀山へ移封されたため、亀山城は廃城となった。
◆現在:
道の駅つくで手作り村に隣接した清岳が城跡である。
主郭一帯の土塁や曲輪などの遺構は良く残されており、近隣の城跡同様、見るべき箇所の多い城跡である。