2016年8月11日撮影
◆別名:
◆所在:
新城市作手清岳宮山
◆交通:
◆歴史:
元亀2年(1571年)に武田信玄が三河侵攻の際、馬場信春に命じて築かせた城である。
飯田から設楽を経由して新城へ抜ける作手街道に隣接するように築かれており、城の南側は伊奈街道へ抜ける脇街道が走っている。
武田信玄が野田城で死去すると、奥平貞能・貞昌(後の信昌)父子は天正元年(1573年)に武田氏から離反し、徳川家康に帰属する。
この時、奥平氏の本拠地である亀山城を放棄した貞能・貞昌父子を追補するべく、古宮城の軍勢は出陣するが、逃亡する奥平軍に肉薄した所、奥平軍の別動隊が手薄の古宮城を攻撃すると見せかけて、城の南側で放火を行う。
燃え上がる煙を見た武田軍は古宮城が落城したと思い込み、作手の地から撤退したと言われている。
◆現在:
宮山と呼ばれる独立丘陵に築かれ、山の中央を南北に分断する特徴的な大空堀を現在も見る事ができる。
東側の曲輪は城主が居住する本郭で、南側に内枡形のような虎口が存在し、南北を土塁で囲まれている。これに対して、西側の曲輪は作手街道に接しており、その中心部は四方を土塁で囲まれ、周囲を横堀状の曲輪が連なった実践的な縄張りを現在も見る事ができる。
階段を上った先は虎口になっている。
正面土塁の上が東側の本郭