民家脇に立つ新城古城の標柱
2017年8月13日撮影
◆別名:
◆所在:
新城市石田字萬福25
◆交通:
◆歴史:
天文元年(1532年)菅沼定継によって築かれた城館で、後に奥平信昌が築いた新城城と区別するために新城古城と呼ばれている。
定継は北に2.5km程に位置する大谷城を居城としていたが、豊川沿いのこの地に城を築いて本拠地とする。その後、後に菅沼本家を継いで田峯城に入り、それまで属していた今川氏から離反して織田氏へ鞍替えを図るが、この行動は一族の分裂を招いた後、布里合戦によって織田方に付いた定継らが敗死。戦後、今川方に残った菅沼定氏(定継の弟)が新城古城に入る事となる。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げると、三河の豪族の多くは徳川家康へと臣従するようになったが、翌永禄4年(1561年)義元の後を継いだ今川氏真は吉田城主である小原鎮実に命じ、菅沼定盈(定継の父と定盈の祖父が兄弟)の守る野田城を攻撃。敗れ去った定盈は従兄弟の西郷清員の元へと落ち延びて行った。
永禄5年(1562年)定盈は定氏らの協力を得た上で、隙を見て野田城を奪還。野田城から追い払われた今川軍は、その腹いせに新城古城に攻撃を掛けるが、一族である田内城主の菅沼定勝の応援を得て、攻め寄せてきた今川軍の鈴木甚平、松井兵右衛門らを討ち取って今川軍を撃退した。
この戦の結果、城の修復が困難と判断した定氏は新城古城を棄てて杉山端城へ移り、元亀元年(1570年)には道目記城を築いて新たに居城としたと伝わっている。
◆現在:
城跡は宅地化されており、明確な遺構などは存在しない。
民家の脇に標柱が立っているが、経年劣化のため、文字が薄くなっているのは残念である。