杉山端(すぎやまは)城


◆別名:

 

◆所在:

新城市杉山字端城26−5

 

◆交通:

 

◆歴史:

永禄4年(1561年)に菅沼定氏が築いた城館である。

 

この頃、東三河に住む豪族の大半は今川氏に従っていたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを遂げると、松平元康は今川家から独立を図り、東三河の豪族達もこれに従う者が増えていった。

 

義元の死後、後を継いだ今川氏真は兵を出すなどして、今川氏から離反する豪族討伐を行い、永禄4年(1561年)には吉田城主の小原鎮実に命じて菅沼定盈の居城である野田城を攻略したが、翌永禄5年(1562年)には今川勢の隙をついて、定盈が奪還を果たしている。

 

野田城を追い出された格好になった今川軍は、近隣の新城古城を攻撃するが、城主の菅沼定氏らの奮戦により、ここでも敗退してしまう。

今川軍を撃退した菅沼定氏であったが、新城古城の損壊は激しく、作手街道の入り口にあたる地に杉山端城を築いて居城とした。

 

元亀元年(1570年)になると、南に600mの伊奈街道沿いに道目記城を築いて、さらに居城を移しているが、杉山端城の遺構は残したままである事から、道目記城は今川軍が来襲した時の前衛となる城で、杉山端城は、いざとなった時に菅沼氏の本拠地である田峯城へと落ち延びる際に、敵勢を食い止める目的もあったのではないかと思われる。

 

元亀4年(1573年)甲斐の武田信玄が東三河へと侵攻し、菅沼氏は降伏を余儀なくされる。この際、信玄は道目記城を接収して拠点としている。

 

信玄亡き後、新城は奥平氏の治める所となり、今泉七郎左衛門が城代となり、奥平氏が関東へ移封された後は、吉田城主となった池田輝政の家臣である高木又左衛門が城代となっている。

その後、菅沼氏の代官を経て、新城城に入った水野分長が支配していたが、水野氏の上州移転とともに杉山端城は廃城となったと伝わる。

 

新城の地には多数の城館が存在するが、杉山端城は作手街道への入り口に位置しており、豊川を遡って来た船荷などは新城で陸揚げされ、作手街道を通って信濃へと運ばれていた事も考えると、戦時の城と言うよりは、街道を往来する人々を守り、監視する目的が強く、このため、他の城館に比べて長期間に渡って存在できたのではないかと考えられる。

 

◆現在:

 道路脇に碑が残るのみで遺構などは存在しない。