道目記(どどめき)城

伊奈街道添いにある電柱脇に立つ道目記城の標柱

 

2017年8月14日撮影


◆別名:

度々目記城
※読みを『どうめき』としている場合もあるが、字名には『上ド々メキ』『トヲメキ』などもある。

ここでは、一番近い字名と別名の読みから『ドドメキ』としている。

 

◆所在:

新城市杉山道目記64-6

 

◆交通:

 

◆歴史:

弘安年間(1278年~1287年)に近江国甲賀郡から来た塩瀬資時が城館を構えた事が始まりとされる。
その後、資時の甥にあたる富永直郷が建武2年(1335年)に富永荘司としてこの地を治め、塩瀬氏は椙山保市司となっていたが、文安2年(1445年)に塩瀬氏は下々村(新城市八束穂)へと移住したため、城館は廃墟と化したと言われている。

 

元亀元年(1570年)田峯城主で菅沼家当主の菅沼定忠は、700m程北に位置する杉山端城主で伯父にあたる菅沼定氏に廃墟となっていた城館の修復を命じて戦に備えさせたと言われている。

翌、元亀2年(1571年)甲斐の武田信玄が東三河へと侵攻してくると、田峯城の菅沼定忠は武田氏に降伏するが、菅沼氏の中でも、野田城の菅沼定盈ら新城の地に拠点を持つは徳川方としての位置を保っており、菅沼氏は武田方と徳川方に二分する事になる。

 

さらに翌年の元亀3年(1572年)武田軍は遠江に侵攻を開始する。道目記城の菅沼定氏父子は徳川軍として三方ヶ原の合戦に参戦するものの、徳川軍は武田軍に散々に打ち破られた。敗戦後に大久保忠世や石川数正らと共に菅沼父子は合計100余騎で、犀ヶ崖を進む武田軍に奇襲をかけて多くの戦果を上げたが、武田軍の勢いは止まらず、三河へと侵攻して野田城を攻囲するべく、道目記城を接収して本拠とし、1か月余りの攻城戦の結果野田城は落城。道目記城において武田信玄は抵抗を続けた菅沼定盈を賞賛したと言われている。その後、長篠城の攻囲戦などを経て、武田信玄は野田城に没している。

 

道目記城は菅沼氏の城として存続しており、天正10年に菅沼氏は飯田城へと移封された際も、道目記城には菅沼氏の家臣である花房八郎が城代として入っているが、天正18年(1590年)に花房氏も飯田へ移ったため、道目記城は廃城になったと言われている。

 

◆現在:

城後一帯は小学校や宅地などになり、遺構などは存在せず、伊那街道沿いに標柱が立てられているのみで、標柱に書かれた文字も経年劣化のため消えかかっている。