長篠(ながしの)城


◆別名:

末広城 ・ 扇城

 

◆所在:

新城市長篠市場

 

◆交通:

新東名高速の新城ICを下車し、国道151号線を2.7キロ程進むと、長篠城跡の標識が見えるので、そこを右折すると駐車場がある。

 

◆歴史:

永正5年(1508年)に岩古屋城にいた菅沼元成が、長篠の地へ移り住んで城館を築いた事が始まりで、元成の父の満成を初代とした長篠菅沼家が成立した。

長篠の地は三河、遠江、信濃や美濃など各地へ抜ける道が古くから整備されていた交通の要所で、菅沼氏の勢力拡大と供に築かれたと考えられる。

 

駿河の今川氏に従い、4代菅沼元直の頃には別所城の伊藤氏を配下に組み込むなど勢力を拡大するが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、5代貞景は松平元康(徳川家康)に従うようになる。

貞景は永禄12年(1569年)に徳川家康の遠江攻めに従軍し、掛川城攻めの先鋒となるが、討ち死にを遂げてしまう。この時、貞景の嫡子である正貞は幼少であったため、長老の菅沼満直の後見を受けて家中をまとめたと言われている。

 

元亀2年(1571年)頃になると、武田信玄の侵攻が激しさを増し、菅沼氏本家の田峯城や縁戚である亀山城の奥平氏が武田氏へと寝返る中、正貞は徳川への忠誠を誓うが、武田方の天野景貫の攻撃を受けた上、後見の満直らの意見もあり武田方へと寝返っている。

※天野景貫も今川氏の衰退により、徳川氏に鞍替えして遠江へ侵攻。武田氏が遠江へ侵攻してきた際には武田氏へと寝返り、この時は奥三河侵攻の先導役を務めていた。

 

元亀4年(1573年)野田城を落とした頃から武田信玄の容体は悪化していき、長篠城で療養するも良化が見込めず、本国の甲斐へ撤収を始めるが信州駒場にて逝去する。

 

同年夏には徳川軍により長篠城は包囲され、武田軍の来援を期待できないと考えた正貞は長篠城を開城して甲斐へと逃亡するが、近くまで援軍を出していた武田方からは内通者とみなされ、正貞は信州小諸城へと幽閉される事になる。

 

後年、正貞が小諸で幽閉中に儲けた嫡子の正勝は、牛久保城主である牧野康成の推挙で家康に仕え、設楽田口に500石を賜り、田口村古屋敷に在住。その後、徳川頼宣が紀伊に入る際に供をして、2000石まで加増されている。

 

長篠城を手中にした家康は、五井城の松平景忠を長篠城へ入れて城の修復を図る中、武田方を見限った奥平貞能・貞昌父子は、再び徳川家へ臣従すべく、亀山城を棄てて家康の下に参じた。この行動に対し、家康は長女の亀姫を貞昌に嫁がせ一門扱いとした上で長篠城を与えたため、武田方に出された奥平家の人質は悉く処刑される事になる。

 

天正3年(1575年)武田勝頼は大軍を持って三河へ侵攻し、長篠城を包囲する。

これに対し、長篠城の奥平勢は500名程の寡兵ながら、多くの鉄砲を所持しており、天然の要害を利用して防戦に努めたが、戦いの中で兵糧庫を焼失して食料を失い、数日で落城するまでの状況に追い詰められた。

 

この状況の中、鳥居強右衛門(奥平家の陪臣と言われている)は寒狭川の中を潜って、武田軍の包囲を躱し、岡崎城まで援軍要請に向かった。

強右衛門が岡崎城に着くと、徳川軍だけではなく、織田信長も援軍を率いて長篠城へと進軍する準備が整っていた。信長と家康に状況を伝えた強右衛門は、その足で長篠城へと引き返し、城の西方で狼煙を上げて城内に合図をして入城を図るが、武田軍に捕まってしまう。

 

強右衛門を捕らえた武田軍は、城に向かって『援軍は来ない』と叫べば、命を助けた上で士分に取り立てると強右衛門を説得する。強衛門は、この条件を受け入れたふりをして城の対岸まで来た所で『援軍はもうすぐ到着する』と叫んだため、武田軍の怒りを買って逆さ磔にされた。

 

この数日後、信長・家康の連合軍が援軍として到着。これに対し、武田勝頼は決戦を挑む事を選択するが、信長・家康連合軍の前に敗北を喫し、信玄以来の名臣の多くを失う結果となり、田峯城の菅沼定忠に助けられながら武節城を経由して本国の甲斐へと逃げ帰ったと伝わる。

 

長篠城を守り切った奥平貞昌は織田信長に賞賛され、信長の一字を拝領して名前を信昌に改めた。

信昌は戦禍の影響で修復が難しくなった長篠城の代わりに新城城を築いて居城としたため、長篠城は荒廃していった。

 

◆現在:

日本百名城の1つとして本丸を中心に整備保存されている。